由緒
神功皇后(代十四代仲哀天皇の皇后)が朝鮮半島へ船出の時に、武内宿禰大臣がその健勝を祈って、此の地に若松を植えられました。やがて、松は枝葉も繁り大木に育ちました。後年、此の地を訪れた武内宿禰大臣はこの瑞兆を奇貸とされ、應神天皇の御遺徳を称え、松の傍に祠を建て神霊を勧請して「正八幡宮」と称し遠目の郷(東明)の鎮守といたしました。
基の後、貞観の代(平安時代、今より約千百年後前)に九州字佐八幡宮の御神霊を京都石清水へ御遷しの時、御鳳輦が当社で休息されたとも伝えられており、古来より「厄除・息災・願望成就」の神として近郷の崇敬は篤いものがあります。
高良宮(こうらぐう)
住古より「厄除神」として崇敬されている武内宿禰大臣をお祀りしております。
近年、八幡神社の全てが厄神様のごとく思われておりますが、本来は高
良宮のある八幡神社のみが「厄除の御神徳」があると云われております。
浅香稲荷社(あさかいなりしゃ)
当神社の東北約100メートルの地(現在は跡形なし)に、神功皇后が、弓矢の稽古をしたと伝えられてる弓弦丘又は、弓弦尾の遺跡があり江戸時代にはそこに当社の摂社として、
浅香稲荷社をお祀りし「心身健全・芸能成就・商業繁栄」の神として崇敬を集めておりましたが、明治中期に当神社の境内にお遷し致しました。
武内松(たけうちのまつ)
千七百年の昔、武内宿禰大臣が植えられた松は江戸時代には幹周りが五メートル以上もある巨木となり、武内松と呼ばれる摂津の名所として知られておりました。
古歌「立ち寄りていざ言問わむこの里の社に松の古き昔を」(大中臣為村)尚、この松は明治の代に枯れましたので、その一部を祀に保存しております。
付記
戦前は境内も相当の広さがあり春秋の祭は大変な賑わいでした。祭に来る露天商の台帳には東明八幡神社は 大 の印が付けてあり、一月十八・十九日の厄神祭には阪神電車が車内に広告を出す程の盛況で、夜通し参拝者が絶えませんでした。
昭和二十年の大空襲で社殿は悉く焼死し、現存している石灯龍等の弾痕のあとが、当時の壮絶さを物語っております。又、その時に累代の社家、塚本家に所蔵されておりました、東明村(一部、石屋村・徳井村含む)や神社に関する膨大な古文書等の大部分も焼失してしまった事はかえすがえすも残念な事です。
宮司
戸枝 政一
Masaichi Toeda
神様の導きで東明の里のお宮にて、神明奉仕のお役目を頂いている。
今、世界中の全ての人が目に入る、月天様、日天様、表裏一体、和合の時来る。